祖母一周忌。

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昨年の3/27に愛するおばあちゃんが亡くなった。生前一番最後に会った親族が私だったし、本当に可愛がって貰ったことが痛いほど分かるくらい愛してくれたおばあちゃんだったから、心のどこかに大きな大きな穴が空いた気分だったし、今でもその穴は埋まっていない。
それでも時間というものは何に左右される訳でもなく淡々と流れ続けるわけで、何時のまにか夏秋冬と時間を経て春の訪れを桜のつぼみに感じる3月末の今日、おばあちゃんの一周忌が目黒不動にておこなわれた。
精神的にも物理的にも本当に色々な事が変わった。近所のクリーニング屋さんに喪服を出しに行くと、もう一年ねぇとおばちゃんもおばあちゃんを懐かしんでくれた。最近まで全然会わなかったおばあちゃんの良き友達達にも、今月になって偶然会うことが多くなった。
一周忌法要を終えて越後にて昼食を食べたときも、おばあちゃんの色々な話を聞かせて貰った。そしてそれは私自身にもっと頑張らなくちゃと思わせるのに十分な内容だったし、実際おばあちゃんに背中を押して貰った気分だった。
SoulSwitchフリーペーパーvol.2で、田坂先生が「自分の中にある、「生きる」喜びと、「死ぬ」怖さを結んでいく力とは何か?」という問いに対してこう答えてくださっている。
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「人間は、必ず死ぬ。」田坂 広志
「死」について、我々が覚悟を定めるべきことがあります。
第一は、人は、必ず死ぬということ。
第二は、この人生は一度しかないということ。
第三は、人は、いつ死ぬか分からないということ。
そもそも、「必死」という言葉は、不思議な言葉です。しばしば、「必死になると、凄い力が出る」と言いますが、「必死」と書いて「必ず死ぬ」と読む。そうであるならば、そもそも、我々は、皆、必死。そのことに気がついたら、誰もが、凄い力を発揮するでしょう。
そして、人生は一度しかない。だから、今日という日は、今日しかない。そのことに気がつくならば、今日という一日を「生き切る」覚悟が定まる。もし、明日を迎えたならば、また、その一日を精一杯に生き切ればよい。では、なぜ、我々は、夢や志、目標や計画を持つのか。それは、この一瞬を生き切るため。夢や志があるから、今日という一日を、精一杯の思いを込めて生きることができるのです。
人の命は、いつ終わるか分からない。これは決して否定的な意味ではありません。その真実があるから、我々は、今日という一日を、「有り難い一日が与えられた、大切にして生きていこう」と思い定めることができる。そして、そう覚悟した瞬間に、人との出会いの有り難さも、見えてくるのでしょう。
「死」があることは、素晴らしいことです。「生」の輝きは、「死」があるから生まれてくるもの。では、なぜ、我々は「死」を怖れるのか。それは、エゴの叫びです。「死」とは、エゴが消滅していくこと。それが怖いから、我々の中のエゴが、「死にたくない」と叫ぶ。だから大切なのが、「私とは何か?」という問いです。その答えによって、「死」というものは全く違って見えてくる。「私」というものを、何にアイデンティファイするか。自分か、仲間か、社会か、世界か。それによって、「死」というものの見え方が違ってくる。
「私とは何か?」。その問いをどこまで深く問えるか。それが「人間の成長」の、本当の意味でしょう。
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From SoulSwitch
おばあちゃんにとっての私はなんだったのかな。私にとっての私は日々葛藤しながらも少しずつぼやけが取れてきていると思う。また新しい事を知ったら一気にぼやけちゃうのかもしれないけど。
おばあちゃん、天国でおじいちゃんと会えましたか?こっちは相も変わらず周りから痩せろ痩せろと言われてますが、どうにか健康でやっています。でも、若さでもっているだけなので、30を前には須田痩せろとは言われない位の状態にします。
今年もお不動様の桜は満開だった。おばあちゃんが咲かせてくれたのかな。今日は一日ゆっくり家の掃除でもしよう。

Diary | 2006-03-26 | パーマリンク | コメント(0)

自己紹介

すだっち 現在楽器メーカーに勤めながら、日々ダイエットに勤しんでいる須田英之です。詳しくはプロフィールで!

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